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合気道

 「合気とは、宇宙の気と我との合体であり、万有愛の精神である」
 合気とは愛なり。我はすなわち宇宙である。

開祖 植芝盛平は、庭を横切ろうとしたある日、全身がすくんで動けなくなり、
そのまま無心、無身の感じで立ちすくんでいると、足元の地面がゆらゆら揺れだし、
天からは目もくらむようなキラキラと輝く黄金の気が沸いてきて、全身をあたたかく
やわらかく包み始めた。
開祖は自分が黄金体と化したことを知った。その不思議さと歓喜にひたると
黄金体はみるみるうちにふくらんで宇宙いっぱいまで満ち溢れた。
その時、悟りの境地に達したことをはっきりと直感した。
勝とうという気を張っていては何も視えない。
愛をもってすべてをつつみ、気をもってすべてを流れるにまかせるとき、
初めて自他一体の気・心・体が統一され、すでに戦わずして勝っている。
自他一体。神人一如。宇宙即我の境地である。
これが合気道の第一歩であった。      
                              「合気道」より抜粋







          
平成2年に合気道新聞に投稿し掲載された体験記です
合気道と出会って5年目に投稿した内容です。
「おやっ?随分優雅だな・・・。」
私が初めて道場に足を運んだ時の第一印象だった。私の想像の中の“合気道”は、
格闘技のようにもっと荒々しく、乱暴なものだった。ところがどうであろう---初めて、
袴姿で稽古をする人達の姿を目の当たりにした時、自分の中のイメージとの大きな
違いを感じた。私の目に映った“その人達”は、とても礼儀正しく、優雅なものであった。
当時、格闘技が大好きだった私は、合気道を格闘技の一種であるかのような誤解を
していたのだ。当時の私は、恥ずかしながら、技の一つ二つも覚えて、相手をひねって
しまう・・などと密かに思っていたのである。

道場に稽古に通うようになって、驚いたことがある。それは、自分より一ヶ月でも古い人、
先輩にあたる人達が、全く右も左もわからない私の稽古の手ほどきを毎週毎週、通うたびに
何度でもしてくれたことが。これは、実に新鮮な驚きだった。学生時代、器械体操部に
属していた私は、自分以外の人はすべてライバル、人の時間を奪ってでも自分のために
練習する・・・それが個人競技の宿命であると教えこまれてきた。
そんな環境で育った私にとって、“合気道”はまさに対極線上にある異質なものであった。
自分のもっているものは、人に教え伝える---先輩諸兄の稽古中の姿勢はまさにそれで
あった。それは、決して人から「奪う」のではなくて、「人に与える心」であった。
合気道の真髄は“広い心と愛”にあるような気がした。こうして何ヶ月か稽古に通ううち、
私の心の奥に根ざしていた闘争心なるものは、次第に薄れていった。

あれから満5年---。いつの間にか5年の歳月が過ぎてしまった。広い心と大きな愛に
支えられて、今日までやってきた。ふと気がついたら、大きな“輪”の中にいつの間にか
融合していた。私にとって、合気道の稽古を一緒にする仲間は、家族のようであり、
十年来の友人のようである。その存在感もまるで空気のように実に自然だ。年齢も性別も
意識することなく、こんなに自然に相手のことを受け入れられる仲間が他にいるだろうか?
私の中で、合気道を通して築いた仲間との人間関係、信頼関係は言葉では言い表せない
ほど貴重で、目に見えない心の奥深いところで結びついている。そんな気がする。私に
とって彼らは貴重な存在で、また彼らの中でも私の存在が受け入れられている、と私は
信じている。

合気道の心は奥が深い。これでいい、という極みがない。「心・技・体」合気道の基本に
根づいているこの言葉が私は好きだ。決して技を競い合う為のものではない。心と体が
一つとなって心も態度も合わせて磨かれることが大切なのだ。

合気道をやっていて何より嬉しいこと。それは、私自身が合気道を通して学んできた仲間
との和、温かさ、信頼、そして技も含めて私の中にあるすべてのものを、また再び多くの
人に伝えていくことが出来ることである。かつて、右も左もわかぬまま、道場に足を運んで
いた頃、多くの先輩方が私を受け入れ、支え、導いてくれたように。

      (平成2年10月 合気道新聞掲載文より)


平成3年撮影(ソニー合気会道場にて)
現在、合気道二段(黒帯)です








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